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特集インタビュー

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福島の復興に向けて取り組む人たち

東北で歩み続ける人たち

東日本大震災の記憶とともに、この町では人と人が支え合いながら、少しずつ日常を積み重ねてきました。
大好きなこの町の希望や誇りを守るため、そして大切な人を想いながら。
今回は、そうしたひとりひとりの経験と今へとつながる活動、さらにこれからの未来についてお話を伺いました。

Fukushima Interview #01

さつまいもの可能性をこれからも!
キラキラした笑顔輝く未来をつくる。
株式会社 福島しろはとファーム
(白ハトグループ)
瀧澤 芽衣さん

楢葉町の震災被害と活動のきっかけを教えてください

さつまいもを復興の希望に
私たちが拠点にする楢葉町は、福島第一原発から半径20㎞圏内に位置し、原発事故の影響で全町民が避難を余儀なくされた地域です。4年に及ぶ避難生活を経て、2015年5月には町内全域の避難指示が解除されました。しかし、やっとの思いで町民が町に戻っても仕事は少なく、田畑は荒れ放題。さらには放射線による作物への風評被害にも苦しみ、町には耕作放棄地があふれていました。

楢葉町のあふれた耕作放棄地を生かすため、町民の働き口を増やすため、人口を増やすため…。
2017年、白ハトグループは様々な可能性を町とさつまいもに乗せて、楢葉町でのさつまいも生産をスタートしました。2019年には「福島しろはとファーム」を設立しました。1.5haから始まったさつまいも畑は現在約50haまで広がり、世界最大のさつまいも貯蔵庫「楢葉おいも熟成蔵」の完成によって最大約1,500トンのさつまいも貯蔵が可能となりました。

風評被害を払拭するために

体験と交流は安心をつくる
福島県には、美味しい農作物がたくさんあります。お米や野菜をはじめ、桃やさくらんぼ、りんごなどの果物も全国有数の生産量を誇り、その味や品質の高さには定評があります。少しずつ風評被害は減ってきているものの、「福島県産」という言葉に不安を感じてしまう方がいらっしゃるのも事実です。私たちは、“安全なデータがあっても、安心は簡単には得られない”という現実を痛感しました。
だからこそ、私たちは応援したいと思ってもらえる取り組みを続けています。子どもたちが楽しめるイベントの開催や、地域の学生との商品開発、そして消費者の方々に実際に畑に来ていただき、土に触れ、収穫を体験してもらう場づくり。そうした時間の積み重ねが、少しずつ安心へとつながると信じています。福島の大地で育つさつまいもを通して、多くの方に笑顔を届けたい——そんな想いで、日々歩みを続けています。

これからの未来へ向けて

地域の絆と未来へのまちづくり
楢葉町には、困難を前にしても前向きに乗り越えようとする強さや、地域の団結力が感じられます。人と人との距離が近く、アットホームであたたかいまち。何かを始めようとすると、たくさんの人が力を貸してくれる——そんな心強さがあります。私たちは、そうした楢葉町の魅力をもっと多くの方に伝えていくために、これからも地域交流や産業の活性化に積極的に取り組んでいきます。

さつまいもは、たくさんの仲間がいる野菜です。品種も多く、調理方法によって無限の楽しみ方が広がります。そのように、私たちも地域の方々や企業、団体と深くつながりながら、目の前の復興だけでなく、その先の未来を見据えたまちづくりに挑んでいきます。
そして、福島県・楢葉町がこれからもキラキラと笑顔が輝く、希望あふれる地域であり続けることを願っています。

Fukushima Interview #02


木戸川に、希望を。
小さな命と共に描く未来。
木戸川漁業協同組合
鈴木 謙太郎さん

木戸川の震災被害はどういった状況でしたか?

惨状を目の当たりに。何もできない日々を過ごして…
楢葉町の中央を流れる木戸川は、かつて日本有数のサケの名産地として知られ、塩引き鮭やイクラなどの加工品を各地に届けていました。しかし震災により、津波が川を遡上してやな場やふ化施設を壊滅させ、育てていた稚魚のほとんどが死滅。町は警戒区域に指定され、放射性物質の調査すらできない厳しい状況が続きました。
震災直後は休漁を余儀なくされ、何もできず悶々とした日々を過ごしました。木戸川漁業ではもともとサケのほかアユ、ヤマメ、イワナ、ウグイなども扱っていましたが、現在放流が認められているのはサケとアユのみです。地球温暖化による海水温の上昇など厳しい環境は続いていますが、現在は少しずつ収穫量も回復し、再び川に命の流れが戻りつつあります。

復興に向けた歩みと希望

4年後にまた帰ってきてくれたら
震災後、木戸川では放射性物質の検査を何度も重ね、安全を確認したうえで、2015年にようやく漁を本格的に再開しました。中断していたサケの放流も復活し、すくすくと育つ稚魚たちは、まるで我が子のように愛おしい存在です。
海へ旅立ったサケは、育った川の匂いをたどり、約4年かけてふるさとの木戸川へ帰ってきます。僕はその健気な姿に心を動かされ、幼い頃から憧れていたサケと深く関わりたいと、木戸川漁協に就職しました。
“この子たちが、ふるさと木戸川に元気に帰ってきてくれますように。”そんな願いを胸に、日々向き合い続けています。

これからの未来へ向けて

木戸川の誇りを再び
毎年秋になると、川沿いは全国からの観光客で賑わっていました。現在、稚魚の放流数は震災前には及びませんが、それでも少しずつ川に命の流れが戻ってきています。きっと、木戸川を力強く遡上するサケの群れに出会える秋は近いはずです。
木戸川にサケを増やしたいー。”今はその一心で取り組んでいます。
もう一度、あの頃のように溢れるほどのサケが木戸川の清流を遡上する姿を見られる日を信じて、挑戦を続けていきます。震災前のようにはまだ戻れていませんが、サケが帰ってくることで県外からも多くの人が訪れ、地域の活性化につながることを期待しています。

Fukushima Interview #03

あの日を語り、今を見つめる。
“忘れないこと”が、私の生きる意味
一般社団法人閖上の記憶
丹野 祐子さん

閖上地区の震災被害と活動のきっかけを教えてください。

大切なひとが生きていた証
震災で壊滅的な被害を受けた宮城県名取市閖上地区。私はここで津波復興記念資料館「閖上の記憶」を立ち上げ、語り部として活動しています。
当時13歳の私の息子・公太は津波にのまれ行方不明となり、遺体安置所でその姿を確認することになりました。“なぜ息子が犠牲になり、自分が生きているのか”と悔しさと悲しさで胸がいっぱいになり、毎日どう生きるべきか迷う日々が続きました。家も写真やビデオなどの思い出も何もかもを失った。“生きていた証拠が手元にないからこそ、残る何かが欲しい"と震災から1年後、遺族会とともに慰霊碑を建て、資料館を開館しました。
「閖上の記憶」は、失われた日常と確かにあった思いをつなぐ場所です。語り部として、訪れる人々に被災の記憶と地域の温かさを伝え、希望と絆の大切さを感じてもらうことが、私にとってかけがえのない活動となっています。

失われた命の重み

忘れない、忘れてはいけない記憶
災害は、いつどこで起こるか分かりません。実際に経験していないと、その恐ろしさを想像することはとても難しい。だからこそ、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、経験した私たちが、あの日何が起きたのかをここで伝え続けていきたいと思っています。
私自身、息子を助けてやれなかった後悔は、この先も消えることはありません。「過去に大きな津波が来たことはないから大丈夫」――あの時そう言わなければ、息子は今も生きていたかもしれません。息子だけでなく、あの日、まだ生きたかった多くの命が失われたということ。その事実を、私たちは決して忘れてはいけないと思います。

この町の復興を見つめる

この場所でこれからも伝え続けていく
実は名取市はいち早く復興宣言を出しました。それは、きっと新しく町ができたからです。
土地が整備され、町ができ、景色が変わり、時代が動いていく。一度流され、何もなくなったこの地域が新しい町になり、「住みやすい町」と言われるほどに素敵になったことを、私は誇らしく思います。
しかし、それだけが復興ではないと思います。住民として町の変化を見つめながら、あの日起こった出来事や、かつての閖上の姿、そしてこれからの未来を語り、問いかけ続けることが大切です。「閖上の記憶」を訪れる人々が、命や日常の尊さを感じ、未来へ思いをつなげる場所でありたいと願っています。

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